生きる力とは何か (1)

投稿者: | 2015年10月17日

私の手元に、週刊ダイヤモンド2010年8月7日号第二特集のスクラップがある。
特集のタイトルは「進学塾より注目される『生きる力』を伸ばす塾」。
この記事(以下【記事】と記す)では「人生に差がつく三つの能力」(※)として協調能力、自律能力、思考能力を挙げ、これらを「ひと言でいえば、基本的な『生きる力』ということになるだろう」としている(同誌p.126)。
その上で、この三能力の養成を教育方針として掲げることで「人気を博している」12の塾の指導の様子を、それぞれの能力別に分類して紹介している。
これを読んでスクラップした当時は、教育業界の一隅に居を定めてまだ日も浅く、どれもこれも新しい試みとして何らかの感動を覚えた記憶があるが、今でも「これはすごいな」と思える塾は一つしかない。
※ 週刊ダイヤモンドの記事なので当然だが、ここでいう「人生の差」とはアスピレーション(=地位達成意欲・社会的上昇意欲)を満たせるかどうかのみを指す。また、実際には雇用者にとって都合のいい人物像を提示しているにもかかわらず、あたかも被雇用者=教育の受益者が自らそうなることを求めているかのように書かれている点、さらには(当時すでに崩壊していたはずの)正規雇用全盛期の経済モデルを前提としている点にも注意が必要である。その当然の帰結として塾の指導の紹介も一面的で浅薄な代物であり、当該記事そのものは読むに値しない。

先日酷評した『まず教育論から変えよう』によると、「『生きる力』を育てる」という教育理念は、1996年の中央教育審議会答申『二十一世紀を展望した我が国の教育の在り方について』において「高々と宣言された」(同書p.114。なお、1996年の答申は第一次答申(同年7月19日)。第二次答申は1997年6月1日)。
以下、第一次答申第一部(3)から「生きる力」の定義に該当すると思われる部分を引用する(下線筆者)。

我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。

なるほど、【記事】で挙げられた三能力とある程度の符合が見られる。
「健康や体力」を加えておけばよさそうだ。

さて。
「生きる力」とはいったい何だろうか。

【記事】では、紹介された12の塾の指導につき、「それぞれの教育法は、知見や実績に基づき信念を持って実施されているが、万人に適用可能ではない」(同誌p.127)とわざわざ注意を喚起している。
しかし、「万人に適用可能ではない」「生きる力」などというものが、果たして存在するのだろうか。
注意喚起は「子どもの個性を見ながら、その子に合った塾を親が根気づよく探していくことが肝要だ」と続く。
子どもに必要な「生きる力」はその子の個性によって異なるのであり、根気強く選択肢を増やした上で選択されるべきものである、ということだ。
果たしてそれは「生きる力」なのだろうか。

漫画家さいとうたかをの作品の一つに『サバイバル』がある。
小学生男子に人気の科学漫画『サバイバルシリーズ』でもいい。
特に前者に描かれるような、生きるために必要な知識や技術を習得し、それを実践する力、すなわち survive する力をもって「生きる力」と呼んでもよかろう。
「健康や体力」があったとしても、このような知識や技術がなければ、死を待つしかない。
これこそが万人に適用可能、それどころか万人に必要とされる「生きる力」だという主張は、一定の説得力を持つのではなかろうか。

百歩譲って、漫画に描かれるような極限状況に直面する可能性は極めて低いと仮定したとしても、すぐさま中央教育審議会答申に言われるような、あるいは【記事】に挙げられたような「生きる力」が必要になるとは言えない。
たとえば、「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」を備えた人間がどれほどいるだろうか。
あたりを見回して、十人に一人いればよほど恵まれた境遇にあると言えよう。百人に一人だとしても不思議ではない。
「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性」についても同様である。
だからこれらの「力」は不要である、と言いたいわけではない。
現代においては、これらの「力」がなくとも、何ら困ることもなく生きていける。そう言いたいのだ。

生きることの欲求(生存欲求、生理的欲求)は、たいていの人間が本能的に備えている欲求である。
その欲求に忠実であるには、人間の肉体はあまりに脆弱に過ぎる。
それゆえに、人間は集団を作り、社会を作り、文明を作ってきた。
その意味では、集団・社会・文明を維持する力を「生きる力」と呼ぶこともできよう。
現状より後退することは、人間の生存を危うくするからである。

マズローの欲求段階説にもあるように、社会および文明の発展過程において、低次の(=基本的な、生物的な)欲求は(満たされて当たり前のものとして)振り向かれなくなり、より高次の(=社会的な、人間的な)欲求が発生する。
同説に従うならば、あの有名なピラミッドを登ろうとする力こそが「生きる力」なのかもしれない。
自己啓発論者たちが頻繁に持ち出す理屈である。

しかし、同説に対する批判の一つとして挙げられるように、欠乏欲求が満たされていても(より上位の)成長欲求の満足を求めず、生活の安定に充足する者はいくらでもいるし、それは決して非難されるべき態度ではない。
誰もがピラミッドの頂上を目指すわけではないし、目指さねばならぬわけでもない。
どこまで登るかは個人の自由である。
頂上を目指さぬ人間は「生きる力」を持たぬ人間である、という結論にはなるまい。いくらなんでも。
妻の書いた記事にもあったように、昨今の「ネットで見る大人の世界」には、頂上を目指さぬ人間に生きる価値なしと本気で口走りそうな馬鹿もずいぶんいるが。

もう一度問う。
「生きる力」とはいったい何だろうか。

「生きる力とは何か(2)」に続く