生きる力とは何か (2)

投稿者: | 2015年10月18日

(「生きる力とは何か (1)」の続き)

力とは、何かを獲得するために発揮されるものである。
そうであるならば、「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」や「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性」を身につけた人間は、それらを発揮することによって何を獲得しようとしているのだろうか。
それらを身につけさせんとする教育理念の提唱者は、教育の受け手がそれらを発揮することによって何を獲得し、その獲得する行為、あるいは獲得された果実が社会にどのように寄与すると考えているのだろうか。

子どもたちが「生きる力」を行使することによって獲得する(と中央教育審議会が考えている)ものは、まさか周囲に比して高い生涯賃金や高い地位ではなかろう。
しかし、「では獲得しようとしているのは何か」と問われて、答えに窮しない者は果たしているのだろうか。
「地位達成意欲・社会的上昇意欲の満足」こそが「基本的な『生きる力』」の発揮によって獲得されるものであり、わが子にそれを獲得させたいと願う親が「過熱気味」と言えるほどに増加していると【記事】はいう。
【記事】の筆者は、答えに窮する状態(知的ストレス)で踏ん張ることができず、安直な誤答に飛びついてしまった。
が、それゆえに説得力がある、とも言える。

【記事】はこうも言う。
「成熟社会となり、成功や幸せの定義が多様化しているからこそ、こうした能力を磨く必要がある」(同誌p.126)
すぐに続けて渡辺健介氏の「日本人の幸福度が低い理由は経済的理由ではなく、『自己実現』と『人とのつながり』、この二つが低いレベルにあるから。これらを向上させる能力を養うべき」という言葉を引用する。
これはおかしい。明らかに間違っている。
求められるものが多様化しているのなら、磨かれるべき能力も多様化しているはずである。
能力を磨かない、という選択も許されてよい。それがここでいう「多様化」であろう。
「自己実現」や「人とのつながり」を向上する能力を養うべき、などという言説にいたっては傲慢でしかない。
「多様化」した「成熟社会」の構成員全ての幸福度が、この二つのレベルを引き上げるだけで一斉に向上するはずがない。
ひっそりと自己のそのような能力を磨くのなら勝手にすればいいが、他者にそれを押し付ける権利は誰にもない。
※ もっとも、【記事】に対しては、「成熟」とは社会のどの分野におけるそれを意味するのかという疑問や、「成功や幸せの定義が多様化している」という事象も今に始まった話ではなかろう(あるいは多様化などしていないと反論することも可能)という疑問はあるが、本稿の論旨から外れるので、ここでは触れない。

では、「生きる力」とはいったい何か。
それが発揮されることで獲得されるものは何なのか。

「生きる力とは何か(3)」に続く