子供の視点・感性を真正面から受け止めるための二冊

投稿者: | 2015年7月3日

がくラボ雪子です。
おすすめ書籍から、「子供の視点・感性を、真正面から受け止めるための2冊」をご紹介します。

ウィリアム・サローヤン/伊丹十三訳『パパ・ユーアクレイジー』新潮文庫

父から「小説を書く」という仕事を与えられた息子と「次は料理の本を書く」父の、ありふれた、しかし他の誰にも、どこにもない生活。
3歳児が哲学するドキュメンタリー映画「ちいさな哲学者たち」(フランス・2011)にも通じる、素朴だからこそ直截な「世界との邂逅」。
それを保ち続けながら生きようとする2人のありようが、愉しく気持ち良く、そして穏やかな内省へと引き込まれます。
何年かに一度読み返している良書。

新倉万造×中田燦『大人の写真。子供の写真。』枻文庫

プロ写真家・まんぞうさん(53歳)が、年の離れた親友・さんちゃん(6歳)を誘って、カメラを片手に街に出ます。
同じ場所・同じ時に同じ物を撮っても、「何かと出会った時の感動」が違う、その違いがそのまま写真に表れる。
さんちゃんのお父さん・中田諭志さんの言葉とあいまって、ふと笑みがこぼれてしまう対比の数々。
写真・カメラ好きさんにも写真集としてお勧めしたい一冊です。

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大人と子供の関係とは難しいものだなぁと、この仕事に就いてからずっと思っています(多分、神尾(そ)にとっては難しくないのだろうと思うのですが…まあ人間にはそれぞれのタイプ・個性があるということですね)。

正直に言うと私個人にとっては、大人と子供の間にさしたる違いはなく、ただ対等で尊重すべき他者です。
ですので、無礼な振る舞いに対しては大人であろうと子供であろうと何も違いなく腹を立てますし、感動させられた特質に対しては大人も子供も違いなく尊敬します。
大人を導いてやろうと思わないのと同様に、子供を導いてやろうともあまり思いません。
大人であろうと子供であろうと、自身がやった(あるいはやらなかった)事の結果責任は自分でとるしかないのが本質であり、喜びも痛みも自分で感じ自分で受け入れるしかないもの、そして人生は自分で歩むしかないものです。

しかし一方で、こちらが圧倒的に年齢が上で、社会経験も比べるまでもなく豊富で、その分知っていることも多い。
そして、子供は法的に責任をとれる立場にない。よって、社会的にも責任を取らせないのが社会通念です。
もちろん普通の社会人として、それらの事実に逆らう気もありません。

子供は人として対等な他者であるが、その反面こちらが一方的に責任を負う圧倒的強者である。
それが矛盾として感じられ、その矛盾を未だスッキリ解決できたとは言えない状態なので、「立ち位置の取り方が難しいものだなぁ」と思い続けている、というわけです。
悩みながらも続けてくる中で、言語化されないまでも随分慣れて対応・対処に一貫性が出てきた感覚はあるのですけどね。

圧倒的強者として圧倒的弱者を護り、彼らにある程度先鞭をつけてやりながらも、人として完全に対等であり続ける。
一方で、「教える先生」という立場そのものが、そういった対等性の上には成り立ち得ないものでもある。
その二つの相反する「存在命題」の境界線上で、どちらもが綺麗に成立するありようを、ずっと模索しています。

そういう私には、「子供の認識世界・内的世界」とは一体どのようなものなのだろう、という興味がいつもあります。
社会的・発達心理的両側面から鑑みて、彼らの視野は狭くて当たり前です。
その狭く限定された中で、何を見て何を感じるのか、どう考えその考えはどう広がるのか、そういうことに興味が尽きません。

上掲の2冊は2冊とも大人の手によるものですので、「本当に」子供の視線を表現し得ているのかという点については、原理的な疑いがどうしたって残ります。
しかし、この2冊は、その疑いもきちんと引き受けています。
子供の視線・子供の内的世界を描きながらも、それが「大人から見た子供」でしかないのだということをも、きちんと示している。
その向き合い方だからこそ肉薄されるものがある。そういう2冊なのです。

私たち大人に、子供の内的世界が「本当に」解る訳がないのです。
私たちはもう「大人になってしまった」のだし、「あの頃にはもう帰れない」のです。
私たちはその事実を全身で引き受けて、そこから子供と向き合い子供を語らねばならないのだ、と、そう思います。