児美川孝一郎『まず教育論から変えよう』(太郎次郎社エディタス)読了

投稿者: | 2015年10月14日

序章では、現在の「一億総教育評論家」社会における教育の語られ方を5つのパターンに分類し、そのどれもが当事者(=子ども・若者)を置き去りにしていると主張する。
その上で第一章以降では、道徳教育、ゆとり教育、エリート教育、キャリア教育、大学改革の5つの論点を取り上げ、それぞれの歴史的経緯、立ち現れる主張の立場性と議論のねじれを明らかにし、当事者(受益者)としての子どもたちの側に立った著者の意見や提案を付加している。

この本で有用な箇所は、5つの論点に関する歴史的経緯および主張の立場性と議論のねじれを明らかにした部分、著者の言う「『教育言説の社会学』的研究」(本書p.263)に該当すると思われる部分。
どの論点においても多くの学びと発想を得ることができた。特にエリート教育とキャリア教育は非常に面白かった。
これのみにしておいてくれればよかったのに、と思う。

著者は、「『教育言説の社会学』的研究」には身体半分くらいしか惹かれない(丸ごとではない)のであり、その理由は「暴露・分析・整理のあとには、『では、どうすればよいのか』を論じたくなってしまう」からだと述べている(本書pp.263-264)。
本書においてもその欲望を抑制できなかったようだが、現場の現実を知らない人間が提示する意見や提案は、何らの新鮮味も説得力もなく、残念ながら議論の俎上にも載らぬ(無視しても何ら差し支えない)ほど、何の役にも立たない内容であった。
著者は本書によって読者が著者自身の意見に誘導されることを危惧しているようだが(本書p.265)、その危惧は筆者の傲慢であり、読者への侮蔑である。
著者の意見は他者を誘導するほどの「引力」を有してはいないし、たとえ誘導される読者がいたとしても(その無用さゆえに)実害は発生しまい。

もう一つ、残念を通り越して不快であり憤りを感じたのは、TPOをわきまえない文章であったこと。
私より十年も長く生きている大学教授であるにもかかわらず(あるいは大学教授であるがゆえになのか?)、読者の期待する文章の品位を感得し実現することすらできない、という事実に愕然とした。
これが故意、すなわち筆者による「読みやすさに配慮した結果」なのだとしたら、これもまた筆者の傲慢であり、読者への侮蔑である。
「『私』なんていうかたい表現より、『僕』って書いた方が読みやすいですよね?」
「ときどき『(笑)』って入れておかないと、普段ブログや Facebook や Twitter しか読まない読者には読み通せないですよね?」
何ら有益な提案を示し得ない学者風情からこれほど馬鹿にされていることに、世の読者諸氏はもっと怒ったほうがいい。

日本全体における教養のレベルをもし測れたとして、それが低下するのは情報を受け取る側にのみ帰責されることではない。
情報を発する側による(上述のような)傲慢と侮蔑もその低下を促進する。
「学問の府」である大学を肩書きに背負う人間が、いやしくも教育をテーマにした書籍を物するにあたり、国民の教養レベルの低下を自らが促進していることに無自覚であるという事実。
人文系学部廃止論者が涎を垂らして飛びつきそうな事例である。
人文系の教養が「価値なし」という烙印を押されかけた事実を、著者はどの程度の重みを感じながら捉えているのだろう。

得るところも多かっただけに、残念な一冊だった。