カタログ化する社会

投稿者: | 2015年12月8日

ほんの少し前には、「嫌なら見るな」という批判封殺が普通にあったわけだが、今はどうなってるんだろう。
(この辺りの勘所はやっぱりTwitter追ってないと分からない。)

嫌なら見るな、と言えるには、そのコンテンツが一定度合い「マイナー」である必要がある。
関係ない奴、好きじゃない奴は、必要ないんだから来んなよな、と言えるだけの余裕が。

今でももちろんそういうものはちゃんと残ってる訳だけど、この数年で、とてもそうは言っていられないコンテンツ=社会問題が立て続けに起き、それがSNSで一般的に共有される割合が増えた感がある。

そこを経て、冒頭の排他って、今はどの程度使われてるのかな、と。

その中で、「これは社会で考えるべき問題であり、全員が当事者意識を持つべき問題なのだ!」と主張される諸々の問題は、多分「民主主義的」に淘汰されるし、そこには必ず「プロパガンダの技術」が持ち込まれ、「資本主義的」なパイの奪い合いが起きていく。
耳目を集められたら勝ち。その度合いで、重要度が決められていく。

もちろん既に政治がそのように動いている訳だけども。
もう既に、民間発の問題提起もそのような淘汰の流れに乗り始めている。

しかし一方で、それでも「嫌だから見ない」と内心呟いている人は、必ず相当数いる。
政治問題ですらそうなんだから、民間発のものなどもっとだ。
個別の問題そのものが嫌なのではなく、ただそれを扱う人達の雰囲気がなんとなく嫌、とか、批判ととられそうなことを言って絡まれるのが嫌、とか、多分そういう動機が強くて、人知れず見ざる聞かざるを通す人は、もっともっと増える。

そういう社会では、クラスタ化は強固に進みまた細分化されるだろう。
多くの人々は、どれについてはこのクラスタ、どれについてはこのクラスタ、と、「”諸問題とそれへの態度”のカタログ」から選択するようになっていくだろう。
資本主義的なパイの奪い合いが起こっているのだから、そうなる。

だから、多分、本気で社会を変えようと目指すなら、今以上にロビイスト活動が必要になる。
逆説的だが、今のような政治の進められ方をこそ必要とする運動家が顕在化してくる。
個別化カタログ化した社会で、それらを引っくるめた全体を変えようとすれば、国民全体を「国民」たらしめている国籍と、それを保証する国家、国家を統治する政治からトップダウンで下ろすしかないのではないかと。

翻って人々は、と考えると。
「聖なる予言」だったか続編だったかで、高度に専門化された社会が描かれる(この表現には語弊があるのは先に断っておく。が、こう読んでも構わないと考えている)。
そこでは、人々はただ己が成すべきことを成す。徹底してそれだけ。
そして、貨幣の代わりに情報を交換する。
ある意味、それでいいのかもしれない、と思う。究極のありようではある。
そのときに、国家というものがまだ存続し得るのかどうかは、よく分からない。いや、し”得る”のかもしれないが、それならどんな役割のためにあるのか、あるいは無駄となって瓦解するのかまでは、これを書いている今はすぐにぱっとは出てこない。

結局のところ、どの程度人が、(大小問わず)「社会」とか「コミュニティ」とかいった「居場所・拠点となるべき集団」を必要とするものなのか、が問題なのかもしれない。